家族揃って思い出の地福岡へ ドライブ in 2006

7月22日、雨模様。
今日はかねてから予定していた家族揃ってのドライブの日。僕が家族と出かけるのは、もう3年も前になるが 家族揃って平戸・生月島に行って以来のこと。このところ休みの日にも学校のクラブ活動に熱中している お姉ちゃんも、僕の予想に反して今回参加してくれた。
今回の目的地は、僕に病気に立ち向かう気概とやる気勇気を植え付けてくれた福岡T病院リハビリ室と当時の 生活の場だった自宅と会社周辺。僕にとっては色々と思い出に満ちあふれた5年振りに訪れる懐かしの地だ。
今回同行してくれるのは、訪問リハビリに来ていただいている理学療法士のO先生と訪問看護のM看護師さん。 Mさんは6月に日本ALS協会福岡支部の総会に参加した時に続いて応援していただくことになった。お二人とも お世話になります。ちなみにO先生は日ごろお子さんと出かける機会も少ないとかで、お子さん連れでの応援& ドライブとなった。僕としてはその分気が軽くなったが何とかして子供たちが喜ぶドライブコースの設定にして あげたっか。でもお尻の時間が決まっているし中々難しい相談だった。せめて遊具のある公園で昼食を 取れるようにすることで勘弁してもらおうと思った。

今回も唐津経由のコースで行く、そのほうが景色がいいし以前勤めていた会社の前と福岡T病院の二ヶ所に 行くには早いからだ。しかしその分福岡市内で渋滞に巻き込まれる可能性が高く、11時半という約束の時間に 福岡T病院に着くにはリスクを背負うことになる。その対策も考えておかなければならなかった。また運転して くれる妻に初めての道でしかも交通量の多い道をいかせることで、更に気苦労をかけることに少し申し訳ない 気がしていた。


9時15分過ぎ雨の中を自動車に乗り込み予定の9時半に少し遅れていざ出発。唐津市内に入った頃幸いなことに 雨が上がった。今日のメンバーの中に雨男・雨女はいなかったようだった。雨も上がったし後は時間との 戦いになった。
二丈−浜玉有料道路に入ってすぐのパーキングでトイレ・吸引休憩。その時O先生が近付いて来てそっと一言。 「奥さん結構飛ばされますね。」。事情の分かっている僕は曖昧な笑顔で返す。西九州自動車道前原−福岡線に 入った頃にはあれほど騒がしかった子供たちの声がぴたりと聞こえなくなった。どうやら眠ってしまった ようだった。
11時少し前福岡都市高速姪浜料金所通過。なんともいえない時間になっていた。僕の心に焦りが生じていた。 しばらくすると百地の福岡タワーが見えてきた。その時息子たちが「福岡タワーが見たい。」と言っていたのを 思い出し急いで歯軋りで合図して促した。息子たちは「初めて福岡タワーが見えた。」と大喜びだった。 シーホークホテル・ヤフードーム・西公園と横目に見ながら自動車は進む。千鳥橋JCTを通る頃には11時10分を 回ったところだった。博多駅東出口で降て会社の前を通って行くか、このまま真っ直ぐに進み月隈JCTで 曲がって野多目出口で降りて福岡T病院へ直行するか思案のしどころだ。博多駅東出口で降りれば道は分かるが 約束している時刻に間に合うかどうかは微妙な時間だ。一方野多目出口は最近出来たらしいので間に合うとは 思うが、全くの不案内でもうひとつ不安が残る。どうしたものかと悩んだが、元いた会社を見たいとの思いが <より強く働いて、結局は博多駅東出口で降りてしまった。

出口を出て博多駅の後ろの込み入った通りを歯軋りで右折左折の合図をしながら元勤めていた会社方面へ向かう。 僕の歯軋りは家族に評判がよくないのは分かって入るが、この際仕方ないと連打する。ようやく会社の前の道に 出て一息。僕としては会社を横目でちらりと見れれば良いと思っていたのだが、妻の「止まる?」との 問い掛けに思わずうなずいてしまい意志の弱さを露呈する。ただ正門入口前に止めてもらったのは良いが、 顔振りの出来ない僕にはほとんど見えない。そのことを察してか妻が娘に急いで写真を撮ってくるよう指示を 出す。そこで娘は自動車から降りていったのだが中々戻ってこない。後で聞くと構図が決まらなかったと、 事情を知らない娘ならでの理由だった。

こんな所で思わぬ時間を食ってしまったが後は妻もよく知っている道(これからの行程は、僕が職場から離れる 最後の2ヶ月間毎日送り迎えしてくれた道だった)なので一安心していたら、6年の月日が妻を不案内に してしまったようだった。交差点で不安げに僕を見るので大橋駅前の県道に出る道に曲がるように指示をした。 しかし県道に出て度々信号待ちしている時によくよく考えてみると、新幹線高架下まで直進してそこで 曲がれば信号待ちが少なくてすんだのにと気が付いたが後の祭りだった。でも大橋駅前を通る道にはたくさん 思い出が詰まっているので、信号待ちしている時には焦りながらも思い出に浸ることが出来た。

11時40分過ぎ約束の時間より10分ほど遅れて福岡T病院の玄関に滑り込み、急いで降りる準備に取り掛かった。 ところが人工呼吸起用のバッテリーが作動しないと言う。すぐに4階のリハビリ室まで自発呼吸だけで行くぞと 覚悟を決め合図した。今日の調子なら余裕だと思い込む。車椅子に僕の身体と呼吸器を移してもらい急いで移動。 その時ある些細な事に気が付いた、5年前に玄関のところにあった10cmほどの段差がなくなっていると。何も 変わってはいないように見えたこの病院の玄関の小さな変化に時の流れを感じてしまった。
ところが病院の中に一歩踏み込むと、待合室・受付・エレベーターへの通路・エレベーターの中、以前と何も 変わってはいないのが分かった。エレベーターの4階の扉が開くと、廊下の隅に設置してある緑色の公衆電話と リハビリ室への通路が目に入ってきた。これも以前のままだった。
はやる気持ちを抑えつつ通路を進みリハビリ室に入ると、僕の名を呼ぶ声が聞こえ一斉に拍手が起きた。 今日は土曜日で治療は午前中で終わる。その上約束した時間よりはるかに遅れリハビリ室に入った時には 11時50分を過ぎていた。だからリハビリ室で訓練している人は一人だけだった。それにもかかわらず 言語聴覚士のS先生はじめ大勢のスタッフの方が以前と同じ明るく大きな声で出迎えてくれた。懐かしさと 嬉しさで涙がこぼれそうだったが何とか耐えた。
まず底で呼吸器のバッテリーが作動しなかったことを告げコンセントのあるオペレータルーム?の横まで移動し 呼吸器を着けてもらい一息つく。それから万が一の時のため待機していただいていた?ここ リハビリテーション科の担当医師でもあるT先生がSPO2を確認し異常がないことを調べてくれた。 T先生とは多分初めて会うはずなのだが、以前どこかでお会いしたことがある気がして仕方がなかった。 そんなことを思いながらまたS先生と思い出話に花を咲かせながらも僕の目はリハビリ室の中を駆け回っていた。 リハビリ台・柱に手すり・ペダル漕ぎのマシーン・平行棒・マンガ本の本棚・リハビリ机・ゴムのチューブを張った 手作りのリハビリ器具それに大きな窓、何もかもが懐かしくここでリハビリ訓練を受けていた日のことがまるで 昨日のことのように思えてきた。
その時S先生の後方集まってくれていたスタッフの中にピンクの看護着の看護師さんの顔が目に入った。 その瞬間涙が溢れ出してきた。と言ってもそのピンクの看護師さんに当時取り立てて世話をしてもらった訳では ない、リハビリ室の受付で僕が来たことを担当の理学療法士と作業療法士に大声でよく伝えてくれていた だけなのだが。
昔話に花を咲かせているうちに時間はどんどん過ぎていたようだ、一番下の子が何度も「お腹が空いた。」と 言いに来ていた。そこでそれを潮時に帰ることにした。その時S先生が「昼食が取れる部屋として訓練室を一応 準備していますよ。」と言っていただいた。時間は1時近くになっていた。そこでその言葉に甘えることにした。 スタッフの皆さんに別れの挨拶をし、リハビリ室を出て言語聴覚訓練室へ向かう。訓練室はリハビリ室を出て 左に曲がった通路の奥にあった。ここは以前S先生からマンツウマン(当然妻は僕の側に付いていてくれて いるが)で訓練と指導をしていただいていた部屋の対面に当たっていた。
S先生の指導と訓練の内容は、当時言葉が聞き取りにくくなっていてまた食事を取る時の頭の角度や姿勢を 試行錯誤していた僕に理論と納得を与えてくれるものだった。S先生の訓練は口と顔を動かすことから始まり 発声練習へと移っていく。その時口の形をどうすればいいとか舌をどう動かせばこの音が出やすくなると とても具体的に指導して頂けたので、分かりやすくかつ納得できた。もしS先生にあと1年いや半年早く めぐり合っていたなら、僕の言語や嚥下の能力はもっと長い間その力を発揮できただろうと今でもそう 思っている。だから交流会などで他のALSの方に会った時には言語・嚥下リハビリの必要性を伝えるように しているし、ALS福岡支部総会に参加した時にはボランティアとして応援してくれているSTの卵の学生さん達に 自分たちが今学んでいることがどれほど大切で役に立っているのかを告げるようにしている。
S先生には他の事でもお世話になっていた。S先生は本を持つことが出来なくて読めない僕のために、 九大付属病院の中にある本の貸し出し室からボランティアの人が小説を読み聞かせして録音してくれている テープを定期的に借りてきてくれていた。それを部屋の中でベッドに横になりながら、生活の拠点を福岡から 佐賀の実家に移してからは月に一度福岡に行く時に自動車の中で聞いて楽しんだものだった。S先生には 本当に色々とお世話になった。
訓練室に入ると、みんながすぐに昼食の準備に取り掛かった。妻と同行してくれている訪問看護師のMさん それに理学療法士のO先生とで僕の経管栄養の用意と体制を整えてくれる。その間にも子供たちは渡された お弁当を食べ始めていた。僕が子供たちと同じ部屋で食事を取るのはいつ以来だろうか。妻に聞いていた通りの 光景が展開されていた。一番上の子と一番下の子はあんまり好き嫌いがなくてほとんど何でも食べるし 食べるのも早い。それに対し真ん中の子は好き嫌いが多いと聞いているし食べるのも遅い。その上食べる時に 良くおしゃべりしている。だからなおさら遅くなる。他の子が食べ終わって遊び始めても、遅れて食べ始めた 妻に「これも食べなくて良い?」と話しかけている。食べたくても食べることが出来ない僕を目の前にして 全く持って贅沢で歯がゆい話だ。「世の中には食べたくても食べれない子供たちも一杯いるんだ。贅沢なことを 一転愛でさっさと全部食べろ!」と言ってやりたかったが、久しぶりに家族揃って楽しい一日を 過ごしているのだし、ここで何も今の雰囲気を壊すことはないと思い直し自重した。結局真ん中の子は 一番最後まで食べていた。
昼食が終わるとすぐにS先生の待っていてくださるリハビリ室までお礼とお別れを言うために向かった。すると リハビリ室にはS先生とピンクの看護師Yさんが待っていてくれた。そこでリハビリ室をバックに記念の写真を みんなで撮る。そしてお別れの挨拶を告げると下の玄関まで来て見送りしてくれると言う。嬉しいことだ。 そこでみんなで玄関まで降り、妻とO先生が自動車を取りに行っている間玄関前ホール兼外科待合室で 僕とS先生そしてYさんはしばしの会話を楽しんだ。といっても話すのは専らS先生で僕とYさんは微笑みながら ただただ頷いていただけなのだが、それでも十分に楽しかった。
そしてお別れの時、まだまだ名残は尽きないがこれ以上S先生とYさんを拘束しておく訳にもいかないし次の 予定の時間も迫っていた。「また来ますね。」と文字盤で再会の約束を交わし涙の中で自動車は動き出して行く。 僕は病院の建物を曲がり玄関が見えなくなるまで背中越しにS先生とピンクの看護服を着たYさんが 見送ってくれている視線を感じていた。
病院を出ると以前住んでいたマンションへと向かう。これからはもう任せたと思っていたら妻は僕に 支持するように目で促していた。そこで僕は交通量は多いけれど妻が最も覚えているであろうコース 県道31号線を選択し曲がるコーナーを次々と指示した。県道31号線に出ても妻の運転は不安気だった。 そこでファミレスのある交差点で右折するよう合図したら・・・・・。ようやく見覚えのある道に出たのか、 妻の走りが変わってきた。
その先の交差点を左に右に曲がり文化会館の通りに出た時、妻が娘に「O小学校なつかしかろっ。寄る?」と 聞いた。O小学校は娘が1年生の一学期に通った所で、僕にとっても娘の運動会や選挙の投票へ何度も行った 懐かしいところだ。ところが娘からは意外な答えが返ってきた、「いい。それよりも文化会館の中に図書館が あるなら図書館に寄りたい。」と。実家に引っ越した当時はO小学校の校歌をよく歌ってくれていたのだが、 小さいころのことはどうしても忘れてしまうものらしい。仕方の無いことなのだろうが・・・・・。
小学校の横を通りほんの少し走ると以前住んでいたマンション横の交差点に着いた。そこを曲がりマンションの 周りを回って立体駐車場のある中央スペースに入る。7年以上も住んでいたことだし、周りの道も通路も 立体駐車場もオートロックの入口も何もかもが懐かしい。しばらく余韻に浸っていると息子たちが「上に 上ってみたい。」と言い出した。すぐに却下しそれを潮にマンションを離れることにした。

次の目的地は昔の上司Iさんとの待ち合わせ場所那珂川町山田の伏見宮。マンションを出た妻は細い裏道を 通ってダイエー横の小道から大通りへ出た。これは山田付近まで道案内は不要かと思いきや、そこには 指示を求める妻の顔があった。すぐさま大土居の交差点の右折を指示、続けさまにMr.Maxのある交差点左折・ 次の交差点を右折し新幹線車両基地の下の道をくぐって行くよう細かく合図を出した。本当は時間があったら 新幹線車両基地が見えるところに止まって子供たちに新幹線を見せてあげようと思っていたのだが、 同行してくださったO先生の子供さんも女の子だったし時間も無いことだしで取り止めにした。
ルートを王塚台方面へ取り道なりに広い道を進み待ち合わせの伏見宮のある山田へと向かう。僕は待ち合わせの 場所に指定した神社に伏見宮というたいそうな名前があることなどついこの前まで知らなかった。僕は昔 よく通った国道385号線のIさんが住んでいる山田付近の沿線に鳥居と境内があったことを覚えていて、そこを 待ち合わせ場所に指定しただけだ。ひと月ほど前Iさんにメールで「今度福岡に行くので出来れば顔を見たい。 国道385号線で山田に入った国道沿いにある神社を待ち合わせ場所にしたいと思っていますが どうでしょうか?」と連絡したところ、「了解、伏見宮で待つ。」との返信があったのであの神社が伏見宮と 呼ばれていることを初めて知った。ただこの神社を通りすがり見ていた時、高い木々に囲まれた境内が物静かで 少し幻想的な雰囲気をかもし出している様に思えて、一度行ってみたいと思っていた所だった。よく 知らないから当然自動車を止めるスペースがあるかどうかも分からなかった。最悪路肩に自動車を止めて Iさんと挨拶を交わすそれだけで良いと思っていた。

待ち合わせの地伏見宮についたのは午後2時半過ぎ、約束の時間を30分以上過ぎていた。Iさんには昼食が 終わったとき妻が遅れる胸の連絡を入れていたが、それでも2-30分は待たせてしまったことだろう。伏見宮に 近づくと道路脇の空きスペースにIさんが自動車を止めてたっているのが見えた。そこへ急いで自動車を 滑り込ませるとIさんが軽く片手を挙げながら近づいてきた。その仕草と相変わらず日に焼けて黒光りしている 顔を見たとたん、僕の目が潤んできた。病気になってからというもの涙腺が緩くなって涙もろくしまっていて 全く困ってしまう。
Iさんは僕のそばに来てまず「元気か?」と声をかけ、続けて付き添ってくれている訪問看護師さん・ 理学療法の先生に「こいつがいつもお世話になって」的な挨拶をして回り、それから妻に子供たちに 移動中自動車の中で食べさせてあげるようにと紙袋を渡した。中身はフルーツゼリーとなぜか蒲鉾で、多分 家を出る時にお中元としてきていたものを適当に見繕って入れてきたのだと思うが、挨拶といい手土産といい Iさんらしい気遣いだった。
再び僕のそばに来て妻や訪問看護師さんに「こいつは頑固者だから色々迷惑をかけていると思うけど、 そんな時は叱りつけてくれ。」とIさんらしい憎まれ口をたたき、「お前も口が利けたら色々言いたい事が 沢山あるだろうにな。」と続けた。そこで僕は脚を動かして見せて「僕だってこうして応援があれば福岡にも 来れるしパソコンもこの足で操作している。だからまだまだ大丈夫だ。」と返事をしたつもりだ。
それからもうしばらく会話を楽しんだ後、Iさんが「この後も予定があるだろうからお前ももう帰れ。」と 行った、僕がそろそろ時間を気にしだしたのを感じたからだろう。この辺もIさんらしいところだ。この言葉を 潮時にIさんに別れを告げ国道385号線を南畑ダム方面へ向け自動車を走らせ始めた。

この国道385号線は24年ほど前に始めて自動車を買ってからよく通ったものだ。車窓から見える景色には 数々の思い出が詰まっている。秋の彼岸の頃には沢山の彼岸花が咲く南畑手前の田んぼの土手とあぜ道、 元気な頃Iさんによく連れてきてもらったゴルフ場へと続く道、時々家族みんなで遊びに行った九千部山へと 登る道、雪の降った次の日に雪遊びをするために国道385号線を南畑ダムに向かって進めるところまで行き 子供たちはソリ遊び・僕は子供たちに見せようと大きな雪ダルマを作ろうとした緩やかな坂道と小さな畑 (50cm以上もある雪の玉を2つ作るには作ったけれど病気が進んでいて頭の雪玉を持ち上げる力はもう無かった)、 そして静けさに澄みわたる筑紫耶馬溪、何もかもが懐かしい。
左右に大きく曲がるカーブを上りきるとダムの上に出る。湖面を見ながらダムに沿って進むと左手に マリンピア那珂川が見えてくる。悪名高き厚生年金の無駄遣いで有名なマリンピアノひとつだが、 ここマリンピア那珂川にも家族みんなで時々遊びに来たものだった。ダムの上流に流れ込む川に架かっている 橋を渡り右手に曲がり小さな集落や棚田の間の細い道を突き当たるまで自動車で登って行くと、荒れ果てて ほとんど藪と化したみかん山が見えてくる。春になるとここに大きなワラビが生える。3月末が来ると毎年 週末毎に一人でまた娘とワラビやつくしを採りに来たものだった。国道の右手の土手の上に祠?納骨堂?がある。 そのあたりや少し山の方に入った所にもワラビが生える。春になると家族みんなでドライブがてらでここに来て 春の日差しを楽しんだものだった。

でも今回は様相が全く違っていた。橋のたもとの小さな食堂が無い。国道の右手にあった数件の家も無い。 少し進んだ所にあったはずの工場?も地鳥?を食べさせてくれるバンガロー?も無くなっていた。さらに 川に接した山の斜面の木々も遥か上まで刈り取られ見事に地肌を見せていた。ついに五ヶ山ダムの建設準備が 始まったのだ。


五ヶ山ダム建設地のCG
(五ヶ山ダムのホームページより)
五ヶ山にダムができることはワラビ採りに行っていた頃建設反対を訴える小さな木の手作りの立て札を見て 知った。でもこの辺りには今通ってきた南畑ダムのほかにもうひとつ佐賀橋を右折し峠付近までドンドン 登って行った所に背振ダムもある。この上もうひとつダムが必要なのか?。那珂川流域は十数年に一度 大雨による洪水に見舞われているようだ。この頻度は確かに多い。何らかの対応は必要だろう。でも五ヶ山に ダムを作ることで本当に十数年に一度の洪水が防げるのか。前回の洪水の時南畑ダムの貯水量が足りなくて ダムからあふれ出しダムが決壊する恐れが出て一定量の水を放出せざるを得なかった、あるいはダムが満杯で 流出する水のなすがままになった、それが洪水を引き起こす原因になった。もし南畑ダムの貯水量がもっと 多かったら洪水は防げたといえるのであれば申し分ないが。まあ五ヶ山ダム建設にあったては過去の 気象データや雨量データを基にシュミレーションされていると思うのだが。
また福岡市および周辺では数年に一度水不足に悩まされる。僕が福岡市および春日市に住んでいた20年間でも 3-4度休水や節水制限の措置がとられた記憶がある。五ヶ山ダムの建設によって福岡市および周辺地域の 水不足の問題はほぼ解決できると思われる。でも地球温暖化が現実に始まっている今の世の中、京都議定書の 内容も守れそうもない日本においてダムの建設によって貴重な山々の木々の緑こんなに簡単に奪っていいのか、 水不足解消のための代替案は本当に無かったのかと思う。福岡市はきれいな海玄界灘に面しているではないか、 漁業被害も起きない・生態形にも影響を与えないような玄界灘のずっと沖合いの深海から深層水を引き込んで それを淡水化する施設をいくつか作って水を福岡市に供給することで水不足の問題は解消できると思うのだが、 うまくすれば佐賀大学で研究している深層水発電で電力も供給できるかもしれないし、素人考えの 浅はかさだろうか。海の水は無限だが、ダムを建設する結果において一度失った木々の緑は二度と 戻ってはこない。

佐賀橋を横目で見ながら少し行くと突然正面に一直線に新しい道が見えてきた。これが東背振トンネルに繋がる 取り付け道路だ。旧国道はここから大きくカーブして九十九折になって坂本峠へと続いていたのだが 便利になったものだ。そういえばこの取り付け道路の下辺りに那珂川から分かれた小さな川が流れていたはずなのだが、 そこはどうなってしまったのだろうか。昔独身の頃の夏の暑い日に涼を求めて那珂川の上流に来て、佐賀橋の ところに自動車を止めて那珂川から分かれた小さな川を見つけその小さな川に沿って歩いて行き、川岸に 大きな岩を見つけてその岩の上に飛び移り、釣糸を垂れ・ビールを飲み・コンビニで買ったおにぎりや惣菜を食べ・ キャンプ用形態コンロでお湯を沸かしてカップ麺を食べ夕方涼しくなるまで昼寝をしながら過ごした事があるが あの川や場所は今どうなっているのだろう。


(五ヶ山ダムのホームページより)
東背振トンネルに近づくと工事中の大きな橋げたが見えてきた。この橋げたによって東背振トンネルをこれ以上 どこと結ぼうというのかとの疑問が湧いたが、後でよくよく考えると今通ってきた道は五ヶ山ダム完成の 暁にはダムの底に沈むことになる、その時南畑ダムの上流の道と東背振トンネルとを結ぶ道になるのだなと 気が付いた。でもそうなると今通ってきた取り付け道路は完成までの一時的なものということになる。本当に この取り付け道路は必要だったのか。今工事中の橋げたの道が旧国道385号線の上を交差する時には中原方面へ 下りるための旧国道へつなぐ道がどうせ作られるはずだ。トンネルの開通に合わせてこれらの道の建設を 計画的に進めていれば取り付け道路は作る必要はなかったと思う。
東背振トンネルは中々快適だがトンネル自体はあまり長くはなさそうだ、トンネルに入るとすぐに出口の光が 遠くの方に見えていた。東背振トンネルを出ると目の前に大パノラマが広がる。それと同時に この東背振トンネルがこれほど山の上のほうに作られていたのかと気付かされた。そういえば・・・・・
僕が東背振村(現吉野ヶ里町)-坂本峠-那珂川間を通り始めたのは今から15年以上も前のことである。 その当時から東背振村方面から坂本峠に向かって登って行く途中のまだ広い道(この道は途中で履行も できないような狭い道になる)から山の上のほうに大きな道を作っているのが見えていたが、その工事中だった 道がようやく完成したのだな通った。
それにしても長い歳月と多大な費用をかけてこんなに立派な道とトンネルを作る必要が本当にあったのだろうか。 確かにこの道や東背振トンネルは利用者にとってはとても便利だ。旧国道385号線の坂本峠からの佐賀県側は 履行もできないほど狭いし、しかも九十九折の曲がり道で対向車がいつ来るかも分からないから心配しながら 走らなければならない道だ。通行料の300円で時間と安心を買うと考えれば安いものだと思う。だからといって 交通量がドンと増えるとは限らない、通る必要のないものは一度ぐらいは遊びで通ることはあっても何度も 通るものではない。建設した側は神埼方面から福岡市内に自動車で行きたい人の何割かは東背振トンネル経由で 行くと踏んでいるのかもしれないがそれは少し甘いと思う。自動車で走り回ることが好きな僕がたとえ吉野ヶ里・ 神崎辺りに住んでいるとしても、那珂川町・福岡市南区に用事がある時しかこの東背振トンネル経由の道は 利用しない。まあ福岡都市高速が全線完成し開通すれば事情がまた変わってくるかもしれないが。現に今日は 土曜日で天気もよかったしかも午後3時過ぎだというのに、取り付け道路に入って東背振トンネルを通り麓に 下りるまで他の自動車とすれ違った記憶がない。僕個人としては何もこれほどのお金をかけて新しい道を 作らなくても旧国道385号線の佐賀県側数ヶ所に履行できるだけのスペースさえ作ってもらえれば 良かったのだが。でも佐賀県としてはかなり事情が違うはずだ。佐賀県民でもあまり知らないと思うが、 背振山の北東側に佐賀県は出っ張っており集落もあるし住民も住んでいる。その地域と佐賀県側との生活道路を 繋ぐことを佐賀県は使命と感じていたはずだ。だからなんとしても常時自動車が安心して通行できる広さを 確保した道路を作りたかったはずだ。しかしそれならそれで蛤岳の周り東・南側に作られている林道を 林野庁?と交渉して買い取り?舗装整備して県道か町道に格上げすればいいのにとも思うのだが・・・・・。

東背振ICから高速道路にのり多久ICで降りて多久市街地・西多久・女山峠・若木・松浦バイパス・伊万里バイパスを 通って自宅に着いたのは午後4時半過ぎ、予定の時間を30分以上も過ぎていた。同行していただいた 訪問看護師のMさん・理学療法士のO先生に申し訳ないことをしたと思う。すぐに訪問看護師のWMさんに 自動車からベッドに移して着替えをしてもらい、その後理学療法士のO先生に手・足・腰のリハビリをしてもらう。 普段兆時間座ったままの姿勢をとっていることのない僕にとって、高速道路にのった頃から膝や腰が 痛くなっていたのだった。でもリハビリを施してもらったことで膝や腰の痛みもぐんと和らいだ。
今日一日僕に付き合っていただいた訪問看護師のMさん・理学療法士のO先生本当にありがとうございました。 おかげで僕や子供たちにとって楽しくそして思い出に残るドライブの一日を過ごすことができました。 また今日一日ずっと運転してくれた僕の嫁さん、本当にありがとう。そしてお疲れ様でした。

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